白河踊り

「白河踊り」
                  絵と文 平川 里

郷土 平川のお話

山口県平川地区の盆踊りにちなんだお話です。

山口県平川地区で150年近く大切に踊られてきた白河踊り。
奥州白河で会津の兵らと長州の兵らがすざましく戦った歴史がありました。

戦いが休止して盆を迎えましたが、盆には敵も味方もない。お寺で盆踊りを踊っていた
白河の人々の中に長州兵もいれてもらい、戦死した者たちへの供養のためにと
一緒に踊り、次の世代に向かって互いに強く生き抜こうと話し合ったということです。

長州兵たちがそこで習った踊りを持ち帰って、山口県内各地に広めたものが
「白河踊り」です。

奥州白河は福島県南部で、栃木県との県境近くに位置しています。
そこは1868年戊辰戦争の時に最大の激戦地でした。

白河の城下町は大きな戦火に見舞われ、住民もまた戦争の犠牲になって数多くの
人々が亡くなっています。白河市内のあちこちに戦死者たちのお墓や慰霊碑、供養塔が
およそ、50箇所以上あり、それには新政府軍、すなわち長州諸隊や薩摩などの西軍の
兵士たちの慰霊碑も数多くあるのです。

戊辰戦争の戦死者を両軍分け隔てなく手厚く供養しつづけているのが白河の町といえます。はるばる会津で戦ってきた長州兵たちには、下級武士や庶民、中でも農民出身の
騎兵隊・諸隊兵士が数多くいました。戦いが止んで一息つくなか、戦の合間に
盆を迎え、白河のお寺の境内には沢山の人達が集まって盆踊りが始まっていた。
 お寺に寝泊まりしている長州兵も見物に出ていて、自分たちも仏様の供養に踊りたい。
と、考えました。白河の人々は薩長の人たちも踊りにまぜてやろうという事で一緒に踊り
始め、長州兵達は真剣に踊りを覚えていったのです。
  こうして、敵味方無く弔い供養してくれた白河の人々への感謝の心を胸に、故郷へ
帰ってきた長州の諸隊隊士はそれぞれの地元で盆にこの白河踊りを披露したのが
始まりです。山口県内ではこれを「白河踊り」として、今でも各地で踊り続けられているのです。萩市・阿武町・山口市・宇部市など。以前は下関市・熊毛町などでも踊られて
いたようです。現在「政調白河踊り」として最も盛んに受け継がれているのが、山口市平川地区なのです。

ちなみに、戊辰戦争の西軍には長州軍のほかに大垣藩の一部の兵士も白河に駐留していて
岐阜県大垣市付近では「白川踊り」として踊られているそうです。

ともあれ、山口では150年も踊り継がれているのです。
今まであった盆踊りを押しのけて主流となったのは、東北帰りの兵士たちが白河でその地の人々と踊った情景が忘れられなかったからでしょう。そこに庶民同士の親近感もあり、
生き残った兵士たちが白河の人々が、示した供養のまごころを大切にし、諸隊の兵士を
敬う地元の人達に伝えて、ともに毎年白河踊りを続けてきたからからではないでしょうか。
 民衆が生み出し受け継いできた祖先の心意気❢
白河踊りを絶やさず末永く踊り続けて行くことは、きっと豊かな心を育む場の一つに
なるのではないでしょうか。それはまさに、これからの世代に託された、地域のすばらしい文化遺産なのです。


「白河と山口に共通する代表的歌詞」

○ 盆にゃ踊らしゃれ お寺のかどで ごしょ願う

○ 今年しゃ豊年 穂に穂が咲いた 道の小草に 米がなる

○ 見るが馬鹿かよ 踊るが馬鹿か 同じ馬鹿なら 出て踊れ

○ 山は焼けても 山鳥立たぬ 子ほど可愛い ものはない

○ 揃うた揃うたよ 踊り子が揃うた 稲の出穂より まだそろた

○ 踊り踊るなら 三十まで踊れ 三十過ぎたら 子が踊る

○ 遠く離れて遭いたい時は 月が鏡で あればよい

○ あなた百まで わしゃ九十九まで 共に白髪の はえるまで

このお話が3月24日 白河市文化交流館 コミネスにてやるオペラ
「影向のボレロ」の元になるのです。
三時間にもおよぶこのような超大作が白河市で見ることができるのは
ほんとに素晴らしいことです。地元でも踊り継がれている「白河踊り」が
遠く山口県でも踊られていたという事実を今その場で知ることが出来るのです。

あなたは歴史の語り部になるでしょう・・・。


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