三月になると思う事

あれから四年たつのですか。
あの日はとても寒かった。
たまたま娘が来ていてお茶を飲んでいました。
『これは大きいぞ』とっさに思いました。重なる揺れに
暫くは立ち上がれないくらいで側のテレビが倒れない様に
抑えたりしていました。大きな揺れが収まると前の家の
老夫婦のお宅が心配になり娘と二人で行ってみると
ご主人は立ち上がれないでいるようで恐ろしさに震えている様子でした。
そこら中のものが倒れていたし、ご主人は以前に御病気をなさってちょっと
対処できないでいるようでしたので少しお手伝いしていると、奥様が廊下の
方からきて気丈に対処なさっていました。そうこうしているうちにまたも揺れが。。。
 落ち着いたのを見計らって、何かあったらこちらに来るように伝えて私達は
我が家に戻ったら散乱した植木でそこらじゅう土が広がって、皿は何枚か割れて。。。。
あの時娘がいたから少し落ち着いて対処できていたように思います。オロオロしていたら
娘も不安になるだろうと自分を落ち着かせようとしました。
その後は娘に孫を迎えに行かせて、もう一人の娘夫婦一家を全員呼び寄せて我が家は
総勢9人での共同生活が約二ヶ月ほど。毎日おにぎりを作り水はペットボトルに入れておきイザという時に備えておきました。電話が使えず困ったのは親戚や知り合いに連絡出来なかった事でしたが、公衆電話が使える事がわかり一日二件ほど連絡をいれました。
そして何よりどうしよう?と思ったのは毎日飲んでいる薬の補充でしたが、病院も暫くは
大勢の病人やけが人の対処で通院の人の対処はできないでいるのが現状のようで、近くの
個人病院に行って処方箋を作っていただいて薬の補充ができて安心したのを憶えています。毎日テレビで流れる津波の恐ろしさとあの忌まわしい福島第一原発の事故が起きて、皆で本気で移転しようかと考えた時期もありました。特に娘達は小学生と保育園の小さな子供達を抱えていたので本当に悩んだようでした。
 そんなこんなで四年間、会社所有の山林は放射線の影響で使用出来ず私は3年ほど
「台所通信」も出せず(書く事ができずにいました)にいました。でも我が家は子供全員
と孫三人が一同に寝起きできてちょっとしたキャンプ状態で、皆で知恵を出し合って
乗り切る事ができた様に思います。
 あれからまだ福島県は復興とはほど遠いように思われますが、ちょっとずつ前を
向いていっているような気はします。
 今年もあの3月11日が近づいてきました。未だにあの日の光景は忘れようがありません。ペットボトルの水は切らさない様にしています。マッチやロウソクは解る様に
ひとまとめにして時々使う様にしていますし、暖房品も二台のストーブに変えました。
煮炊きに使えます。何回も体験した地震の時より四年前のあの大地震はしっかり
身構えさせてくれる体験となりました。

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